いのちの電話のかわりに

僕が20代前半を過ごした家賃1万円の部屋には、住人である僕よりも大きく存在感のある印刷機が、ドン!とありました。

それはアパート住人の共有物ではなく、ましてやこの部屋は何かの事務所でもなく、僕が友人から譲り受けた、れっきとした個人の所有物でした。

おかげで僕は当時、物書きとして、雑誌ライターのまねごとをしたりしつつも、その印刷機で自作の冊子をほぼ無限?!に刷っては、あちこちで配ったり、郵送したりと、ミニコミ活動に精を出していたのです。

冊子の裏表紙には、住所と電話番号を載せていました。そのせいでしょうか。電灯を消して寝ようとした頃などによく、どでかい印刷機のそばにある電話が鳴る部屋でした。

その夜、僕の電話番号にダイヤルしてきたのは、「ごめんなさい」と、いきなり謝ってきた、四十代の女性でした。

彼女は「いのちの電話」にかけようとしたと言います。でも、番号がわからず、どうしようもなくなって、目に入った本の電話番号に夢中でかけたのでした。

それが、僕でした。最初のささいな会話の後は、何を聞いても返事もなく、僕は完全に言葉を失い、かといって切ることもできず、お互いの吐息が電話線を走るばかりでした。

夜の突然の電話は、よくありました。当時、僕は穴蔵に閉じこもるように文章を連ねるだけの日々を過ごしていたので、見知らぬ人からの電話すらも、どこか心のよりどころでもありました。

いのちの電話」にかけようとした女性からは、その後も何度となく、かかってきました。

とにかく一日を終わらせることで精一杯。
カミソリの上で生活してるみたい。

そう話す彼女に、僕は相変わらず言葉を失ったままで、だから、とっさに本棚から一冊の本を取り出し、読み上げたこともありました。

感情には表面張力がある、それを崩すのは、たったひとつの言葉かもしれない。

どこかの作家の言葉を信じるようにして、本の印を付けていた行を順番に読み上げる、そんなふうに深夜の電話の糸口をさぐっていた感じでした。

その名前すら知らない彼女とは、何度目かの電話で笑いあえるようにもなり、そして、この頃を境に、だんだんと僕の部屋の電話が鳴らなくなりました。

言葉を書き連ねる日々の、言葉を失い続ける夜を、今でも思い出すのは、かけがえのない経験であったからだと思うのです。

それと、今も、書くことをあきらめていないのも、この経験のおかげなのかもしれない、とも思うのでした。

「戦場のメリークリスマス」をひさびさに観て

時代を越えて残るものは何か、を考えるのが、僕の好きなことです。

たとえば「キネマ旬報ベストテン」というお目付役的映画雑誌の、公開年でのランキング。

大島渚の「戦場のメリークリスマス」は、誰もが知っている日本映画屈指の名作ですが、公開年である1983年のキネマ旬報ベストテンでは、3位となっています。

さらに、日本映画史上ベストワンと名高い、黒澤明の「七人の侍」も、1954年の3位になっています。

つまり、どちらもその年に、上に2つもあったということです。

もちろん、このランキングがすべてではないにしても、むしろ、その年の1位の作品は埋もれていく傾向にあり、時代を越えて残る作品とは、スロースタートで評価されていくようです。

ちなみに、「戦場のメリークリスマス」にいたっては、映画関係者だけの試写会で、上映後、みな無言だったとか。

主演の坂本龍一ビートたけしは、自分たちのあまりの演技のひどさに「こっそりフィルムを燃やしちゃおうか」と話し合っていたとか(もちろん、冗談でしょうが)。

先日、僕はおよそ十年ぶりに、この「戦メリ」を観ました。

あいかわらずの意味不明な展開の中で、日本の映画でありながら、日本人をありのままの醜さで描き、立場の異なる者たちが、魂を重ね合わせていく様が見事に描かれていることに、驚きました。

時代を越えて残るもの、それはたぶん、すぐには理解できないもののであり、何か特別な使命を帯びたものであることは、まちがいないようです。

アインシュタインの相対性理論から考えたこと

アインシュタインは、相対性理論を導き出した物理学者として知られていますが、この理論には、<特殊>と、<一般>のふたつがあります。

くわしい説明ははぶくと、

一般相対性理論>とは、おなじみのE=MC2、物質とエネルギーは、同じものであることを示しています。

特殊相対性理論>とは、時空、時間と空間は、同じものであることを示しています。

ざっくり言えば、どちらの理論も、ちがうものが、じつは、同じだったんだ、という大発見で、それを美しい方程式で表すことに成功しているのです。

さて、僕はこの人類史上最大の発見ともいえる理論には、3つ目があるのではないか、と常々考えています。

ちょっと変なネーミングですが、<わたし相対性理論>とでもいいましょうか。

それは、自分と宇宙は同じもの、であるという理論です。

これを証明する方程式を、近い将来、どこかの理論物理学者が導き出してくれないかなと願いながら、毎夜、酔っぱらいだらけの駅前通りをランニングしています。

きっとそれは、世界でいちばん美しい方程式となり、同時に世界を一変させてくれるのではないか‥‥。

と、今夜も、ゆるいランニング中に、うっすら星が光る夜空を眺めつつ‥‥。

「鎮魂のソナタ」1番&2番

CDで、そのピアノ演奏を初めて聴いたとき、「ピアノを壊す気だ」と、思いました。

もちろん、ピアノを壊すことが目的というわけではなく、ピアニストの腕力による力づくでもなく。

音そのものの<エネルギー>によって、ピアノがバラバラになるのでは‥‥、と本気でびびるほどの、圧倒的な破壊力が耳に届いてくる、という音楽体験でした。

僕自身、趣味の範囲でクラシックを聴いてきた程度ではありますが、たった一台のピアノの鍵盤の音が、こんなにも膨大なエネルギーとして感じられたのは、はじめてでした。

その曲は、3・11震災の鎮魂のために作られたものであり、という未曾有の破壊に対して、それ以上の破壊で応えようとしているのではないか、そんな印象すらありました。

奏者は、韓国人のソン・ヨルムさん。各国の楽団からのオファーが絶えない、新進気鋭のピアニストです。

また、演奏されたホールの反響や録音も文句なく、すばらしいものでした。

この、すさまじい演奏が完璧な録音によって支えられた、幸福な作品とは、じつは、みなさんご存じ!?佐村河内氏&新垣氏の「鎮魂のソナタ」1番&2番です。

ちなみに、記者会見での発言を拾えば、このピアノ演奏の録音テープを、佐村河内氏が、本当の作曲者である新垣氏に聴かせたところ、その圧倒的な迫力に、ただ驚いたといいます。

この<いわくつき>となった曲が、これほどの演奏と録音で残されていたのはなぜか、僕は騒動から1ヶ月以上たった今でも、考えているのです。

もちろん、ウソはいけないことです。けれど、もし音楽の神様といえる存在がいるとすれば(いえ、きっといるはず)、その神様は、誰がつくったとか、そういうことにはまったく興味がないのかもしれません。

たぶん、音楽の神様こそが、神様ゆえに、音楽をただ音楽として受け入れて、それに関わる人をサポートしているのではないか、と、このCDをかけるたびに思うのです。

けっして耳障りのよい曲ではないですし、すでに販売停止になっているので、お勧めしずらいものではありますが、何年か何十年か後でもいいので、この曲とこの演奏が、正当な評価のもと、もう一度、日の目を浴びることを願ってやみません。

ふたりのダメ男のはなし

まずは、ひとり目の男のはなしから。
中学を卒業して以来、日雇いの仕事をやったりやらなかったり。
友人ができても根っからの劣等感から、すぐ暴言を吐いてケンカ別れ。女性を欲望の対象としか見られず、なけなしの金で風俗通い。安アパートの家賃すら払えず、ウソと、土下座でごまかしながらも、引っ越しをくりかえす日々。
そもそも、11歳のときに父が犯罪者となり、一家離散からはじまる人生の転落。中卒のキングオブ劣等感、ひたすら卑屈な生き方だけをしてきた、無頼にすらなれない徹底したダメ男‥‥。
ただ、そんな彼の唯一の趣味は、読書でした。いつしか彼は、小説を書き始めることで人生を逆転させ、「表舞台」にあがってくるのです。
クイズ番組「Qさま!!」に出演したりしているので、ご存じの方も多いかと思います。私小説苦役列車』で芥川賞をとった西村賢太氏のことです。
最初、よくこんなダメ男の話が日本最高峰たる文学賞を受賞させたものだ、と不思議に思ったのですが、1ページ読むだけで、その謎もとけました。
僕自身、まったく共感できない生き方の作家であり、作品なのですが、その文章の切れ味に、ただただひきこまれます。ありのままのすごさというものが、言葉の端々に、何重にもたたみ込まれているのです。
彼が書くものとは、徹底して私小説、つまり自分のことだけを、ありのままに書いた小説です。


 しかし彼は、そんな状況にあるからこそ、
 小説を書いているのである。
 自身をあらゆる点で負け犬だと自覚すればこそ、
 尚と私小説を書かずにはいられないのである。

             『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』より


ダメ男の人生を逆転させたものは、そのダメな生き方そのものだったという事実。これは、どこかくすぶっている、すべての人に通じる、光ではないでしょうか。


いま、オリンピックをまたぐようにして、もうひとりのダメ男が、世間をにぎわせています。僕は、その男を、一度だけ遠目から見たことがあります。
満席のコンサートホールで、すさまじい拍手を浴びながら、どこか恥ずかしそうにおじきを繰り返していたのは、「この交響曲は、私が作ってはいない」という思いが、たとえ一瞬でもよぎったからなのかどうか(いや、そんなこともなさそうですが‥‥)。
僕自身、CDもすべて買って聴き、自伝も関連本もすべて読み、このエッセイコーナーでも紹介し、中止になったコンサートのチケットまで、しっかり入手していました。
すべてが明らかになった今、ウソのタワーマンションといえるほどの虚構のレベルの高さに、もう笑ってしまうしかないくらいの心境ですが(自伝も95%くらいウソ)、さらには、もはや犯罪者であることも免れないとはいえ、この希有なダメ男にも、多くの人を巻き込むほどの、なんらか強烈な魅力とビジョンがあったのは、確かなのかもしれません。
何年後でもいいから、このダメ男にこそ、今度こそありのままを記した本を書いてほしいと思う次第です。
残された美しい音楽を、この先ずっと残していくためにも。

植物の色と、あなたの色について

植物の色は、太陽の光によって変わるものなのだそうです。
ざっくり解説すると、植物は、太陽の光を吸収し、その後、自分に必要のない色を反射し、それが自らの色になっているという仕組みなのそうです。
ゆえに、銀河系のどこかるにある惑星では、太陽の光も異なるので、黒い植物とか、想像もしない色のものがあったりするのだとか(あくまで学者の推測の範囲ですが)。
これは、植物だけでなく、人間にもあてはまるものではないかと思っています。
<自分に必要のないもの>を、自分の外へ放とうとして、それが自分の色になっている、ということが、案外あるのではないでしょうか。
なんだか、裏表というか、ほんとうの自分がどっちなのか、よくわからなくなってしまいそうですが、
花が色とりどりで美しいように、<自分に必要のないもの>とは、誰にでも必要ないものではなく、じつは、人を楽しませたり、なごませたりするように、できているのかもしれません。
たとえば、あふれるほどの愛を吸収した人は、その愛を、他の誰かに、放とうとするように。

ウエルカム!2014年と見えなかった次元

さて、新年一発目の本エッセイコーナーを、ナゾナゾで始めさせていただきたいと思います。

「太さがゼロなのに、長さがあるものってなぁんだ?」
答えは、<すべて>です。
宇宙物理学の分野で注目されている「ひも理論」からいえば、原子よりも、クォークよりも小さい、自然界の最小部品は、ひも(しかも太さがない?!)だというのです。
関連書などを読んでいると、よくミミズのようなかたちで表現されていますが、それも、無理矢理、絵にしたものであり、ともかくも、ひもが振動したり回転したりして粒子になり、原子核や電子で原子&分子を構成し、万物を形成しているのだとか。
さらに、ものすごく小さいそのひもとは、10次元という、空間を振動しているというのですから、最先端の物理学が、SFを越えてきたとも思えてきます。
たとえば、綱渡りするサーカス団員からすれば、世界は前か後ろの2次元しかないわけですが、その綱にまとわりついているテントウ虫からすれば、そこはもうひとつ次元が追加されて、3次元となります。
余剰次元は、ミクロの世界に存在するという簡単な例です。
こうして視点を広げていくと、太さがないのに長さがある、というものも受け入れやすくなるかもしれませんね。
2014年は、世の中的にも、新たな次元をどんどん受け入れざるを得ない年になっていくような予感がしています。
そういえば、個人的には、ハンディの掃除機を購入したノリで、昨年末の大掃除を、例年になくまじめにやったのですが、おかげで、「収納棚の隙間のこんなところにも、なぜだ、大量のホコリが!」と驚いてしまいました。
「我が家の余剰次元が、ここに!」と一人で叫んでしまいましたが、まだ見ぬ次元とは、こんなふうに、すぐそばにあるものなのかもしれません‥‥。
3より上の次元が「いまもここにある」という感覚を磨いてかたちにしていきたいものです。
すべては太さのないひもでできている、と考えながら街を歩けば、いつもとまるでちがう風景に見えるはず‥‥。