謎の老人と一枚の黒い布

はじめての海外一人旅での体験をもとに書いた『世界でいちばん美しい景色のはなし』では、中国人と筆談する中で、運命的な言葉を受け取るという場面を書きましたが、僕はその次にベトナムへ行ったときも、現地のひとたちとの対話に筆談を利用しました。

ベトナムのジャングルの奥地にすむという、「すべての意味を理解する」仙人に取材する計画で、通訳をやとうお金もないことはわかっていました。苦肉の策で自らベトナム語での筆談で取材することにしたのです。

もともとベトナム語は、動詞の変化も少なく、文法も日本語とかなり似ていてわかりやすかいものでした。そこで僕は、入国直前まで基本的な単語を丸暗記し、いざ現地では、紙に質問を書き、答えも紙に書いてもらい、単語のひとつひとつを辞書でくりながら意味を理解していくという、気の遠くなるやりとりを始めたのでした。

それはいままでの人生でも体験したことがないほどスローな時間で、二、三言交わすのに一時間近くかかる有様でしたが、でも、現地の人たちは、僕が解読?している時間も辛抱強く待ってくれました。

たまに、なんとか翻訳できたと思ったら「日本の言葉で、オートバイはホンダというのか?」というどうでもよい質問だったりしてずっこけましたが、村の子どもたちも、僕が疲れると、辞書を引くのを手伝ってくれたりしたものでした。

村から村へと渡り歩き、ようやく会えた「すべての意味を理解する」老人は、ジャングルの空白地帯ともいえる、山の斜面の小さな庵に住んでいました。質素な部屋には祭壇らしきものがあり、そこには、小さな黒い布がかけられているだけでした。「これが神だ‥‥」と老人は言っていました。

メモ帳と辞書を片手に、何日も湿度100%のジャングルを歩き、ついにたどり着いたものとは、一人の謎の老人と一枚の黒い布‥。ただ、いままでの苦労を思うと、この布がとても純粋で美しいものに見えました。それはつまり、異国の民と、彼らのひとつひとつの言葉と向かい合い、理解しようとしたことで初めて出会えた、世界の美しさであったのかもしれません。

おかげ様で大好評!『世界でいちばん美しい景色のはなし』
http://honokasha.jp/book/006/