時間があること

15年以上も前のことなのですが、ベトナムの田舎の村に滞在したことがあります。

ジャングルにいる仙人に会いに行く、という取材目的がありましたが、軽いマナリアのような症状で動けなくなった為でした。

当時、外国人が民間人の家に泊まることは法律で禁止されていたらしいのですが、そこは田舎ということでうまくごまかしつつ、僕は村の大家族の家で療養&居候していました。

会話は、『ベトナム語会話』と『すぐに話せるベトナム語』という本と身振り手振りでしたが、不思議と伝わるものです。

毎日、家の子たちとスコールの雨で体を洗ったり、一緒に洗濯したり、昼寝したり、基本的には朝から晩まで、のんびり過ごしていました。

子どもたちと同じく、ひたすらのんびり過ごしている大人たちに職業を聞いてみたのですが、うまく答えが返ってきません。

もっとも、ここでは毎日働かなくても食べていけるのでしょう。

米は年に三度も収穫できて、マンゴーやパパイヤや椰子の実から野菜まで捨てるほどあって、まるで食物が地面から沸いて出るような土地です。

もちろん、外国人にわからない生活の大変さもあるのでしょうが、当時の僕は、楽園とはこんなところをいうのだと心底思ったものです。

彼らと暮らしていて、ある本の言葉を思い出しました。

人間は生まれまがらにして悟っており、
また生まれながらにして煩悩などない。

滞在中、僕は彼らの親切に助けられました。でも、助けてもらってこんなことを言うのはアレですが、彼らが特別、優しい人たちでもなければ、特別な人に出会ったという気はしませんでした。

彼らには、時間があったのです。こんな村に住んでいるからとにかく暇で、何も用事がなくて、だから僕の面倒を見てくれて、泊めてくれて、いろいろしてくれたのです。

どこでどう育ったにしろ、時間があることは確実に優しさにつながる、というのが後の僕の持論となりました。

「時間があること」こそ、どんな自己啓発理論や、スピリチュアルな観念よりも、人間らしさのベースのような気がするのです。

とはいえ、僕自身も、人並みに仕事をしている以上、あの?楽園?の人たちのようにはいきませんが、人が本当に必要としているものは、ただ時間がある、案外その程度で得られるのではないかと、いま改めて思うのです。