何のために書くのか

中学3年生の頃、「地域の老人宅の訪問」という行事があり、友人四人と、見ず知らずの老人宅へおじゃましたことがありました。
80歳近いおばあさんで、資産家だった夫が死んでから三十年ほど、一人で大きな家に住んでおられ、案内されたリビングには、大きなテレビと、当時まだ珍しかった衛星放送が入っていたのが印象的でした。
おばあさんから、戦中戦後と歩んできた人生を伺ったのですが、いまではのんびりテレビを眺めるのが唯一の趣味とのこと。衛星放送も、息子夫婦が自分のために用意してくれたのだとか。
そうね、あとひとつだけ若い頃から毎日やっていることがあって‥‥と話し出したのは、帰り際のことでした。
「毎日かかさず、日記を書いているくらいですかね」
テレビ台の下の方に、分厚い日記帳が置いてありました。そして、
「若い頃から毎日ということは、これが何十年分もあるんですか?」
 と僕が聞くと、意外な答えがかえってきたのです。
「いいえ、日記は毎年、一冊書き終わったら、焼くんです。自分の息子たちが、私が死んだあとの処分に困るでしょうから」
このおばあさんの言葉は、当時、物書きを志そうとしていた僕にとって、「何のために書くのか」を、いまでも考えさせているものとなっています。
まるでチベットの砂曼陀羅のように、書くことを終えると同時に、それをこの世から消してしまうのです。
何かを書き残そうとあがいている僕には、まだまだ到達できぬ境地。
完成と同時にさっと手を払って消してしまう砂曼陀羅の描き手は、完成する直前の絵を入れるその手に、どんな思いを込めるのでしょうか。あの田舎のおばあさんは、年に一度、日記帳を焼くその日の日記を、何を思いながら綴るのでしょうか。
僕が少しだけわかってきたのは、消して(焼いて)しまう直前であろうと、その心境は最初の一歩目と何ひとつ変わらないのではないか‥‥ということくらいです。
僕自身も、いつかその境地にたどりつければと、いまパソコンで書いている日記を、そろそろ、紙の上に書いてみようかと思い始めているところです。