僕の場合、クレアオーディエンス派

 クレアボヤンス(はっきり見る=透視)
 クレアコグニザンス(はっきり知る=霊知)
 クレアセンティエンス(はっきり感じる=霊感)
 クレアオーディエンス(はっきり聴く=透聴)

この「クレア」ではじまる4つの言葉は、それぞれ、超感覚を意味します。

たとえば、クレアボヤンスに秀でた人は透視ができて、クレアオーディエンスに秀でた人は、<声>でメッセージを受け取る能力があったり、音に敏感なタイプです。

僕の場合、クレアオーディエンス派で、ときどき、時計の針の進む音で目がさめてしまうほど音の影響を受けやすいのですが、そのせいか、中学・高校と、クラス対抗の合唱コンクールではずっと指揮者をやっていました。

楽経験はほとんどありませんが、この超感覚のおかげか、4部合唱の音をそれぞれ聞き分けられ、声量のたりないパートを自分でうたって指示することもでき、おまけに憑依体質だったせいか、当時のクラスメートいわく、「死んだ指揮者の霊がのりうつったような、なめらかな手のふり」をして、中学三年のときは、学年優勝と個人的にも指揮者賞をとったのが、自身のささやかな勲章です。

と、その流れで調子にのってか、高校三年でのクラス対抗合唱コンクールでも、指揮者をかってでてしまったのですが、このとき、大きな壁にぶちあたりました。

進学校における合唱コンクールとは、行事として組み込まれているにもかかわらず、受験勉強の邪魔以外の何モノでもないといった空気があり、練習時間も教師の立ち会いもないせいか、参考書や単語帳を手にしている者がほとんどでした。

クラスで団結して上位3位までに入って決勝にいこう!高校生活最後の思い出を!なんて考えているのは、練習をとりしきる立場の僕一人で、毎日、退陣寸前の首相のような顔つきで練習にのぞんでいました。

予選本番の前日、こりゃあもう、ただ手をふっていてはだめだ、と思ったのか、それとも単に神経がまいってしまっただけなのか、僕は手足と腰、頭までもふりふりして指揮をするにいたっていました。

当時のクラスメートいわく、「まるで原始人が初めて火を見たような」踊り!?をした指揮者を前に、スイッチを入れたように皆が歌いだし、はじめて練習らしい練習ができたのでした。

そして本番当日、「僕一人でも、やります」と言い切った朝練習に一人もかけることなく集まり、授業の合間に行われたコンクール予選では、ぎりぎり三位で決勝進出権を得られたのでした(もちろん、本番ではふつうの指揮をしましたが)。

原始人踊りの指揮をして以来、なかなか目を合わせてくれるクラスメートがいなかったものの、放課後、教室の掃除をしているときに、誰かれとなく次々と「おつかれさま」とねぎらいの声をかけてくれたのは、今ではよい思い出です(かなりの小声でしたが…。ちなみに決勝ではさんざんで、順位がつかず)。

動かしがたい現実を変えるには、たとえ超感覚のひとつを持っていたとしてもまだ力半分なのかもしれません。その超感覚をこえるほどの、自分の中から沸きでる未知のものが必要なのではないかと、当時を思い出して考えるのです。

ちなみに、あのとき突如として降りてきた原始人の踊り?!は、いまでも運動不足のときに、こっそり一人でやっています。