夕方頃に動物園を出るや、猛烈に駆け出した

幼ければ幼いほど、子どもは歩く速度で、行きたいところへいくのか、そうでないかがわかります。
たとえば、病院に予防注射にいくときは、いまにも止まりそうな歩みになるのに、お祭りにいくときはいつの間にか小走りになっている、という具合です。
我が子のことを思い返せば、まだ言葉も理解できない幼児の頃もそうでしたから、歩いて行った先に何があるのか、ということを察知する力は、本能的なものなのかもしれません。
と、こんなことを考えていたのも、当時2歳の娘・ほのかをつれて、上野動物園に行ったときのことを思い出していたからでした。
ほのか(社名と同じ名です)は、充分歩ける歳頃になっていたにもかかわらず、動物を間近で見る楽しみより自分で歩く面倒さが先立ったようで、丸一日、レンタルの乳母車から出ませんでした。
そんな子が、夕方頃に動物園を出るや、猛烈に駆け出したのです。僕は、唖然としながらも必死で追いかけたところ‥‥、失踪&疾走する2歳児が向かっていた先には、おもちゃ箱をひっくり返したような、何もかもが幼児サイズの「上野こども遊園地」があったのでした。
人目で全体を見渡せるほどの敷地に、メリーゴーランドや、コースターなど、おなじみの乗り物が一式、のろのろと動いています。
親からすれば“寄り道危険区域”なのですが、娘にとってみれば、きらきら輝いているところにちがいありませんでした。走って行かれてはすでに手遅れで、しかたなく納得するまで遊んでもらいました。
それでも、名前のとおりにのほほんと存在感の薄かった娘・ほのかが必死で走る姿を見たことに、ヘンな満足感もあったのでした。
子どもにとって速く歩く(走る)ことは、ひとつの自己表現でもあり、時間の進み方を変える手段でもあるようです。
かつて、アインシュタインが、自身の相対性理論について、「好きな人と一緒にいる時間は、短いでしょう?‥そういうことですよ」と説明した言葉を思い出します。
相対性理論によると、単に<そう感じる>という以上に、時間の進み方というは、一定ではないのです。
ですから、今年一年、「けっこう早かったな」と思ったのなら、きっとそれは、充実していた証です。