とある機内ラジオのはなし

iPodなどのデジタルプレーヤーがなかった頃、よくカセットテープで、お気に入りの曲だけを集めたマイベストを作ったものでした。旅行先では何本ものテープは荷物になるので、旅立つ数日前に、1本のカセットテープに入り切る数十曲を選んで編集することが、ちょっとした楽しみでもありました。
いざ外国の地へ降り立つと、一切日本語をしゃべることもできず、ホテルで一人過ごす夜に、唯一の旅の道連れである、お気に入りの歌を聴くことが、精神のバランスを保つ秘訣でもありました。
ちなみに、まったく知らない他人の<マイベスト>を聴く機会が、十年以上も前にありました。東南アジア系の航空会社の機内ラジオで、流れていたのです。
その機内ラジオでは、洋楽やクラシックやジャズの他に、日本からの便ということで、日本人スタッフが用意したであろう邦楽のチャンネルがあり、プロのDJではないものの、ちゃんとFMラジオ風の曲紹介も入っていました。
ヒット曲を順番に流すような、ありきたりなものではなく、おそらくは曲紹介の声の主である女性スタッフが選んだものらしく、落ち着いた曲調なのに不思議と元気が出てくる、筋の通った歌ばかりで、僕はベトナムに着くまでの6時間、そのチャンネルだけを繰り返し聴いていました。
どのアーチストのどんな曲だったか、ということはまったく思い出せないのですが、そのいくつかの歌が織りなす独特の世界観は、今でも感触として残っているのです。
ベトナムの旅で僕は、ジャングルを歩きまわる予定だったために、荷物は最低限にしていました。

カセットプレーヤーも自分のマイベストテープも持ってこなかった決意の旅でしたが、現地では、行きの飛行機の中で繰り返し聴いていた、<誰か>の選んだ曲をずっと口ずさみながら歩いていたのでした。

勝手な想像ではありますが、航空会社のなんらかの部署の、音楽好きの女性が、本業のあいまに作成したであろう機内ラジオ‥…。自分の好きなものとは、自分だけでなく、他人にも幸せを与える力があると信じられた、ひとつのきっかけでもなりました。

思えば、ジャングルで一人、完全に迷ってしまったときも、「たぶん、こっち‥」と、歌いながら歩いていられたのは、あの機内ラジオのおかげだったと思うのです。