僕が唯一知り得たこととは

文章を書くようになった高校生の頃からずっと、ネタ帳を抱えて過ごしてきました。
かっこいい言い回しや言葉の意外な使い方など、「書く」ために必要だと思われるもろもろを、チャック付きの大型手帳に書き留め(もはや手帳とはいえないほどのサイズでしたが)、食事中でも睡眠中でも、手元において眺めていました。
その手帳は友人たちにもよく知れた存在で、当時の僕にとっては、まるで相棒のようなものでした。
やがて二十歳をすぎ、ライターの仕事をするようになってからも、その手帳が手放せず、常にそばに置いてないと不安になるほどでした。
それが今、四十代も間近な歳となり、その手帳が、どこにあるかすらわからない、ということに最近、気づきました。
小手先の技でやりくりしていた当時の文章を読み返すと、自分でほめられるところは、若さにまかせた勢いくらいであり、文章とは、誰でも知っている単語の連続でしかないはずなのに、借り物の言葉かどうかも、行間という、目に見えないところにしっかり埋め込まれていたようでした。
まるで宇宙物理学でいう素粒子のように、言葉と言葉の間に、けっして見えないけれど、何かが飛び回っているかのようです。
自分のやってきたこととは、結局のところ、この目に見えなレベルのやりとりだったようです。行間を読む、という意味が、ようやくわかった気がしました。
誰もが知っていて、誰もが使える、言葉の連続でしかない、文章というもの。
それを人の胸に残るものにするための要素とは、何なでしょうか……。
僕が唯一知り得たこととは、いまだ、借り物ではない言葉が必要だ、ということだけです。